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「あの人のせいだ」「中国人のせいだ」「あの世代のせいだ」── SNSを開けば一日中、誰かが誰かを糾弾している。気づくと自分も巻き上げられて、傷ついて、なんだか疲れている。
なぜ、人は誰かを悪者にしたくなるのか。
最近、こんな言葉を聞きました。「絶望を知らないからクズになる。だから誰かのせいにしたくなる」と。
確かに一理あります。けれど、深く考えてみると、見えてくるものがありました。
絶望って、「想像」でもあります。
想像は、これまでの経験や体験を基盤にして初めてできるもの。自分の身体で絶望を感じたことがなければ、世界の絶望や他者の苦しみを想像できるわけがない。だから、差別の向こうで誰がどんな痛みを感じるかも想像できない。
かといって、その痛みを思い出すこともできない。
代わりに、「あいつのせいだ」「陰謀だ」という記号を、藁にもすがる思いで掴む。── 自己愛が歪んだ時、人はこの「藁」を本気で握りしめます。
自信満々だった人も、人生の疲弊の中で自己愛が歪むと、「〇〇のせい」が止まらなくなる。
このエピソードでは:
・なぜ「絶望を知らない人」が藁にすがるのか
・身体的な絶望体験(父との対峙、雪山、波)が想像の基盤になる仕組み
・「絶望が足りない」を生む2つの社会構造(危険を排除する社会/効率化を強いる社会)
・ブッダの「苦は遍く知られるべし」が、なぜ身体に降りる話なのか
・健全な希望は、絶望を知った身体に立ち上がる
を、丁寧に語ります。
「あの人のせい」と言いたくなった時、身体は何を伝えているのか。一緒に考えてみませんか。
参考文献:『初転法輪経(相応部 SN 56.11)』、メルロ=ポンティ『知覚の現象学』、養老孟司『唯脳論』、ハン・ビョンチョル『疲労社会』、増谷文雄/梅原猛『仏教の思想10 絶望と歓喜〈親鸞〉』